先日ひょんなことから、宮沢賢治の「やまなし」を読むことがありました。
「やまなし」は小学校6年生の時に国語の授業で読んで以来、ずっと心のどこかに引っかかっているおはなしです。当時の私は、このおはなしのことがよく分かりませんでした。泳ぐことが好きだったので、水の中にいる時の、光や影の揺らぎが美しいことは知っていて、おはなしの中で描かれる景色は鮮明に想像することができたのですが、授業の中で担任の先生がみんなに問うた、「クラムボンって何のことだと思う?」ということへの答えが、どうしても分からなかったのです。最終的には「泡」と答えたのだけど、答えながらも全くしっくりこなくて、他の人たちの答えの中にも、それだ!って思えるものはひとつもなくて、でも先生は最後まで、その答えを教えてはくれませんでした。答えはないよ、と言ったと思います。
大人になってからもずっと、クラムボンという言葉を見聞きする度に、クラムボンって本当は何のことだったんだろうと、ぼんやり考えてきました。
今回も、ひさしぶりに「やまなし」を読んでから、またクラムボンのことを考えていたのですが、今日、ふと、あれは蟹の兄弟のお母さんのことなんじゃないか?と思い付いて、そう思ったら、もうそうだとしか思えなくなりました。
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』
『わからない。』
あのおはなしに、お母さん蟹は出てきません。優しくかぷかぷ笑っていたお母さん蟹は、あのおはなしが始まるより前に、自然の掟で死んでしまったのだとしたら。 だからお父さん蟹は、カワセミがお魚を攫っていった時に、子どもらが、
『お父さん、お魚はどこへ行ったの。』
と尋ねるのに、
『魚かい。魚はこわい所へ行った』
と、湾曲した答えをしたんじゃなかったか?
今の私はもう子どもではないので、お父さん蟹の気持ちの方を想像して、そんなふうに考えてしまいます。そしてそう考えると、私がこのおはなしの中で一番好きなくだりが、もっともっと愛らしくて、少しだけ切ないものに見えてきます。
三疋はぼかぼか流れて行くやまなしのあとを追いました。
その横あるきと、底の黒い三つの影法師が、合せて六つ踊るようにして、やまなしの円い影を追いました。
間もなく水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青い焔をあげ、やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり、その上には月光の虹がもかもか集まりました。
かつて四つだった影法師が、いつか三つになったのだとしたら。
でもやっぱり、あのとき先生がおっしゃったとおり、きっと答えはないのだろうと思います。